Whiplas



放題はセッションだったかな... ストーリー...ではなく何だろう、本当に心に響いたワンシーンだった。

ストーリーではなく、そこに描かれた " pattion " に共感した。
感じた。情熱でエクスタシーを感じて、人に何か伝えたいっていう熱意に。
アクターはきっと経験したことがある感情だから演じきれたのかもしれない。
演じる人が役に入っていったように感じた。私にとって過ごすということと生きるということは全く別物。

1頭の動物として、自分ができること。
生死をかけないで何かを伝えれるのは人間だけかもしれない。

ここ最近、歯をくいしばっているのがわからないようにして、涙のつくる感情と闘っているのが私の生きる根元になっている気がしなくもない。それでもいい。
自覚していないか、自覚すると痛すぎるからか、自覚しようとすることはもう致命的なぐらい私は " いま " を生きているからか...
その感情には地雷があり、かけられた何気ない一言か単語で、涙が溢れる。だから地雷周辺を歩かないように目の前の世界に現実と時間の流れが見える種を蒔き、明日しか見ないようにしている。生活しているというより、生きているっていう実感があるからいい。麻痺していない感覚。

映画の主体の Jazz にはそんなに興味もなく、スーパーで、ケニーGが流れていてもうっとしく思うぐらい、 jazz って退屈に普段は聞こえる。なのにストーリーに引き込まれると...リズムをとってしまう。ストーリーにっていうより、ヒーローの役柄に引き込まれたのかな...

今日は日曜日だと思ったら月曜日。朝の4時に起きているからそれに気づいたのは朝の8時半だったけれど、問題はなかったひぐらしと蝉のオーケストラが朝の4時頃から始まる。明るくなってくるにつれて鳥たちのコーラスにかわっていくの。チョコがひぐらしを捕まえたくて外に行きたいというので一緒に薄暗い外へ。空気が清々しい。
昨日から雨がいい感じで降ったりやんだりで、肌寒い。今朝も寒くて、8時には深い霧につつまれて素敵な朝だった。8時をすぎる頃、ひぐらしから鳥たちの声にかわり、気温の上昇とともに静かになって、チョコやファルコン達も畑周辺に帰ってくる。

以外にもいただいた大葉味噌にハマってしまった私。いただいた時は " miso かぁ " と自分の主食にどう合わせるかしらと苦笑したけれど、少し舐めてみて決まった。
ポークスライスかチキンと炒める。ズッキーニを入れて。そしたらとまらなくなって、今日は朝からランチ並みに食べた。そうやって今日は8時前で薄暗いまま曇りの1日が始まり、唯一のご近所さん大葉味噌をくださった夫人がやってきた。" 特に用事はないけれど.. "と、彼女は私のトマトを見にきた。フルーツトマトのイエローが食べられていたと....

彼女のトマトを食べた動物を推測しながら少し立ち話をして、私のかぼちゃのことを話して、彼女の花壇へぼちぼち歩いて、発芽した新しい花をみておしゃべりしていたら、チョコが呼びに来たので私はそのままチョコと山道を登り散歩に出かけた。

登って降って...登って。じっとしていたら清涼な場所なのに動くと湿度につかまった干したての洗濯物の気分。生きる上での雑用を多数こなし正直何やったんだか覚えていないぐらいだけれど、夕食を食べて、バスタイムを満喫し、ベッドに入りながら映画鑑賞の時間がくると....今日やったことの雑用の全てが、この心地よさに繋がっていたことを実感できる。映画の始まりとともに1日1日の達成感を感じ、一口飲んだハーブティーで今日が終わる。